大河ドラマ西郷どん(せごどん)
郷士と上士
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第31話では、西郷吉之助と坂本龍馬が雨漏りをする西郷家の屋根の修理中に、お互いの藩の身分制度について語るシーンがあります。
この時、土佐藩、薩摩藩において下級武士の身分だった二人は意気投合。
吉之助は「日本の雨漏りを直したい」と意気込み、龍馬は「世界を相手に商売がしたい」と夢を語り合って、新しい国づくりのため協力していくことになりました。
この記事では、二人が手を結ぶことになったお互いの境遇の話「郷士と上士」について、土佐藩、薩摩藩を例にして簡単に紹介したいと思います。
郷士と上士
一般的に「郷士」は江戸時代の武士階級の下層に属した人々のことで、主に武士の身分のまま農業に従事した者や、武士の待遇を受けていた農民を指し、「上士」は上級武士、最上位の家格を持つ者のことを指す。
土佐藩の例
関ヶ原の戦いの戦功で土佐に入封した山内家は、以前に四国を支配していた長宗我部家の旧臣を「郷士」として取り立て、山内一豊が掛川城主時代までの家臣(板垣退助らの家系)や土佐入封前に取り立てた者(後藤象二郎らの家系)、長宗我部旧臣の一部の者(吉田東洋、谷干城らの家系)を「上士」とした。
その後、土佐藩では足袋・下駄・日傘などの使用を「上士」にしか許さないなど、同じ武士階級にあっても差別化を徹底。
土佐藩は他藩に比べて「上士」と「郷士」の身分差別が厳しかったとされるが、「郷士」であっても特別な家系や功績によっては「上士」扱いの『白札』とするという制度も持っていた。
土佐郷士として有名なのは、坂本龍馬や土佐勤王党を結成した武市半平太がいるが、武市家は半平太の祖父の代より白札郷士であった。
対して土佐上士として有名なのは、後藤象二郎、板垣退助 、谷干城 らがいる。
土佐藩において「郷士」と「上士」は、潜在的に敵対関係にあったとされ、幕末には土佐郷士の多くが尊皇攘夷活動を行っている。
薩摩藩の例
薩摩藩は武士の数が他藩に比べて非常に多かったため、領内を区分して武士を分散し、定住させるという制度をとっていた。
島津家当主の居城が『内城』であったため、城下以外は『外城(とじょう)』とされ、この制度は『外城制 』、のちに『郷』と呼ばれた。
江戸時代初期、城下に住む武士と「外城士」と呼ばれた地方定住の武士は、大きな区別はなかった。
しかし、島津重豪(島津斉彬の曽祖父)の藩政改革以降、城下の武士は「城下士」と呼ばれるようになり、「郷士(外城士)」の間に厳格な身分差意識が誕生した。
それでも薩摩藩では、養子縁組などによって「郷士」から「城下士」になる者も多く存在し、土佐藩に比べて身分差別は緩かったとされる。
また、「城下士」が分家後に他郷へ移住し、「郷士」となる例もあった。
「郷士」の中でも身分差があって、上級郷士は事実上地方行政を取り仕切り、多くの農地山林を抱えて「城下士」以上に豊かな者もいた。
しかし、薩摩藩では武士が人口の4分の1を占めていたため、全ての武士に扶持(給料)を与える事は不可能だったため、下級郷士は大工や内職で生計を立て小作人になる者までいた。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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