大河ドラマ西郷どん(せごどん)
益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第28話で、一橋慶喜は禁門の変を引き起こした長州藩を潰すため、大軍と用いて長州征伐を決定します。
この時、征長軍参謀として参陣させられた西郷吉之助は一橋慶喜を見限り、日本国内での内乱を避けるために長州藩を幕府に恭順させようと画策しました。
その西郷吉之助が「藩主・毛利敬親・定広親子の謹慎」と「禁門の変を引き起こした3人の家老の切腹」を要求すると長州藩は承諾。
この記事では、吉之助が出した長州藩への条件「3人の家老の切腹」で命を落とす過激な尊王攘夷を推進した家老・益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)について簡単に紹介します。
益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)
益田右衛門介は、天保4年(1833年)に長州藩で代々家老を務める益田家・益田元宣の三男として生まれました。
後に長州藩主・毛利敬親から「親」の一字を賜って「親施(ちかのぶ)」と名乗っています。
父・元宣が死去した嘉永2年(1849)に家督を継いだ益田右衛門介は、嘉永6年(1853)のペリーが浦賀に来航後に浦賀総奉行として着任し、安政3年(1856)には長州藩の国家老となりました。
熱心な攘夷派であった益田右衛門介は、安政5年(1858)に通商条約問題が起こると、朝廷の意思に沿って攘夷実行を行うべきと幕府に訴え、長州藩の「朝廷に対しては忠節、幕府に対しては信義、祖先には孝道」の三大原則を打ち出します。
桜田門外の変以降、尊王攘夷運動が絶頂期を迎えると、長州藩は朝廷での影響力を増し、文久3年(1863)に益田右衛門介は上洛して孝明天皇に謁見し、過激な尊皇攘夷運動を推進しようとしました。
しかし、孝明天皇は行き過ぎた行動を良く思わず、薩摩藩と会津藩が結託した八月十八日の政変で長州藩を中心とする尊皇攘夷派は京都から追放されてしまいます。
このため、益田右衛門介は朝廷から追放された尊王攘夷派の7人の公卿と共に長州に帰国し、再起を図ることになりました。
元治元年(1864)に益田右衛門介は、同じ家老の福原越後、国司信濃、藩士の久坂玄瑞、来島又兵衛らと共に挙兵し、禁門の変を引き起こします。
益田右衛門介も一軍を指揮しましたが、薩摩藩・会津藩連合軍の前に敗れて、長州に帰国しました。
益田右衛門介は敗戦の責任を取る形で自領にに引っ込みますが、第一次長州征伐が起こると幕府軍の参謀・西郷吉之助は長州藩に三家老(益田右衛門介、福原越後、国司信濃)の切腹を要求します。
長州藩内でも、すでに幕府に恭順を貫こうとする保守派が主導権を握っており、益田右衛門介は徳山藩に身柄を預けられた後に切腹を命じられ、自刃しました。享年32。
【第一次長州征伐において処分を受けた者一覧】