大河ドラマ西郷どん(せごどん)
お龍(おりょう)のその後
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で登場し、西郷吉之助の革命に深く関わっっていった坂本龍馬(小栗旬)の側にいる妻のお龍さん。
水川あさみさんが演じているこのお龍さんは、のちに夫・龍馬が暗殺されたことによって人生が大きく変わっていきます。
今回は、明るかった坂本龍馬の妻・お龍(楢崎龍)を悲しみのドン底まで落とした龍馬暗殺以降の人生について簡単に紹介します。
龍馬と一緒だった幸せの前半生からは想像もつかない「お龍のその後」には、いささかショックを受けてしまいます。
お龍の幸せの前半生はこちら
その後、お龍は土佐へ
坂本龍馬の死後、お龍は寺田屋事件を共に遭遇した長州藩士・三吉慎蔵に面倒をみてもらっていました。
一緒に暮らしていた妹・起美が生前の龍馬の遺志により海援隊士・菅野覚兵衛と結婚すると、お龍は龍馬の未亡人として土佐の坂本家に送り届けられます。
しかし、お龍は義兄の権平夫婦と折り合いが悪く、坂本家を3ヵ月ほどで立ち去ることになりました。
お龍は権平夫婦に苛められて追い出されたと言っています。
その後、お龍は妹・起美の嫁ぎ先の世話になりましたが、ここにも居ずらくなって明治2年(1869)には土佐からは離れることになりました。
お龍は龍馬からの手紙を二人だけのものとして、全て焼却するよう依頼したために龍馬の手紙は1通を残して全て失われてしまいました。
そして京都、東京へ
土佐を出たお龍は、京都で世話になった「寺田屋」のお登勢を頼って龍馬の墓所近くで暮らしていましたが、やがて京都にも居づらくなり東京へ。
東京でお龍は、龍馬の関係で知り合っていた勝海舟や西郷隆盛を頼ります。
この頃の西郷隆盛は征韓論に敗れて鹿児島に帰るところであったため、「帰ったら世話をする」と約束してくれましたが、その後、西郷隆盛が東京に戻ってくることはありませんでした。
その後もお龍は、元薩摩藩士や元海援隊士の世話になりますが、龍馬の家督を継いだ坂本直からは冷たく追い返されています。
お龍の評判は元海援隊士の間ですこぶる悪く、彼女を援助する者は誰もおらず、妹婿の菅野覚兵衛にまで「面倒はみられない」と拒否されたといいます。
親切だったのは西郷隆盛と勝海舟、お登勢だけだったと、お龍自身も語っています。
さらに横須賀へ
明治7年(1874)、お龍は神奈川宿の料亭・田中家で仲居として働くと、翌年には大道商人で生計を立てていた西村松兵衛と再婚しました。
再婚相手の西村松兵衛は、元は呉服商の若旦那で「寺田屋」からの知り合いだったといいます。
名前を「西村ツル」と変えたお龍は、母・貞を引き取り、妹・光枝の子・松之助を養子に迎えて横須賀で暮らしました。
明治16年(1883)、土陽新聞に掲載された『汗血千里駒』によって、忘れられた坂本龍馬の名が世間に知られるようになりましたが、創作の多い内容であったため、お龍も「間違いが多くて口惜しい」と語っています。
明治24年(1891)、お龍は母と松之助を相次いで亡くし、横須賀の狭い貧乏長屋で暮らしました。
晩年のお龍は酒に溺れ「私は龍馬の妻だ」と夫・松兵衛に絡んでいたといいます。
最後は龍馬の元へ
その後、夫に先立たれた妹・光枝がお龍を頼ってやってきました。
しばらく3人で暮らしていましたが、やがて夫と妹が内縁関係となって別居してしまいます。
一人となってしまったお龍は、こののち退役軍人・工藤外太郎に保護されて寂しい余生を送ることになります。
明治37年(1904)に美子皇后の夢枕に坂本龍馬が立ったという噂が広まって再び龍馬が注目を集め、お龍の名も知れ渡りますが、明治39年(1906)に66歳で死去しました。
お龍の墓は、8年後に妹の中沢光枝、西村松兵衛らが建立し、墓碑には夫の西村松兵衛の名ではなく「坂本龍馬の妻」と刻まれました。
お龍の幸せの前半生はこちら