大河ドラマ西郷どん(せごどん)
伊達宗城
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で亡き島津斉彬の遺志を継ぎ、兵を率いて幕政改革を認めさせた薩摩の国父・島津久光は、朝廷・幕府・雄藩が力を合わせた新しい政治をするため「参預会議(参与会議)」に出席します。
久光は自分の功績があったからこそ、この会議も開かれることになったと、いささか調子に乗っていますが、その鼻をへし折るのが将軍後見職の一橋慶喜。
慶喜は意見をコロコロ変えて、挙句の果てに久光を「芋」と罵って怒らせ、まともな話し合いをしようとはしません。
このため、この参預会議はすぐに崩壊してしまうのですが、会議には久光のほかにも他の藩主クラスの人間が出席していました。
今回は、参預会議に名を連ねていた幕末の四賢候・伊達宗城について簡単に紹介します。
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伊達宗城(だてむねなり)
伊達宗城は、文政元年(1818)に旗本・山口直勝の次男として江戸で生まれました。幼名は亀三郎。
祖父にあたる山口直清は、宇和島藩5代藩主・伊達村候の次男であったため、12歳で宗城は跡継ぎに恵まれていなかった宇和島藩主・伊達宗紀の養子となりました。
天保15年(1844)、殖産興業を中心とした藩政改革を進めていた伊達宗紀が隠居すると、宗城は宇和島藩8代藩主として幕政改革を発展させ、幕府から追われていた高野長英や、長州の村田蔵六を招いて軍制の近代化にも着手していきます。
さらに宗城は、越前福井藩主・松平慶永(春嶽)、土佐藩主・山内豊信(容堂)、薩摩藩主・島津斉彬と並び「四賢侯」と謳われ、幕府にも積極的に意見して幕政改革を訴えていきました。
その後、13代将軍・徳川家定の後継者、次期将軍に一橋慶喜を推す、前水戸藩主・徳川斉昭に宗城ら四賢候も賛同。
宗城ら「一橋派」は、次期将軍に紀州藩主・徳川慶福を推す井伊直弼らの「南紀派」と激しく対立しました。
しかし、大老となった井伊直弼に強権を発動されて「一橋派」は敗北。
『安政の大獄』が始まると「一橋派」は処分され、宗城も徳川斉昭、松平慶永らと同様に隠居謹慎となりました。
宗城は養父・伊達宗紀の実子・宗徳(宗紀が隠居後に誕生)に藩主の座を譲りましたが、その後も実権は握り続けました。
謹慎を解かれると、宗城は再び幕政に関与するようになり、薩摩藩が起こした英国人殺傷事件「生麦事件」の賠償金を幕府が支払うことに反対。
しかし一方で、事件を引き起こした薩摩の「国父」島津久光とは交流して、共に公武合体を推進しました。
その後も、宗城は「参預会議」や「四侯会議」で国政に関与していきました。
慶応3年(1867)、大政奉還が成されると、宗城は新政府の議定に名を連ねます。
しかし、戊辰戦争が始まると、宗城は徳川氏・奥羽列藩同盟に同情して薩長に抗議し、新政府参謀を辞任しました。
明治新政府では民部卿兼大蔵卿となって鉄道敷設のために尽力。
その後の宗城は、主に外国貴賓の接待役に任ぜられ、明治25年(1892)に病没しました。享年75。