大河ドラマ西郷どん(せごどん)
徳川慶勝
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、徳川慶福を次期将軍に推す「南紀派」を形成している井伊直弼、松平忠固、水野忠央に対し、一橋慶喜を次期将軍に推す「一橋派」を形成する島津斉彬、徳川斉昭、松平慶永、徳川慶勝。
この「一橋派」に属する人物は、かなりのビックネームが名を連ねていますが、その中で一番マイナーなのが徳川慶勝。
徳川御三家である尾張藩主、14代将軍の後見、第一次長州征伐の総督にも任命された徳川慶勝は、幕末期において非常に重要な存在でしたがイマイチ西郷隆盛たちのような草莽の志士たちの影に隠れていった印象を受けます。
この記事では、明治維新に影ながら活躍していた徳川慶勝について簡単に紹介します。
徳川慶勝
徳川慶勝は、尾張藩支藩であった美濃高須藩主・松平義建の次男として江戸に生まれた。
弟には徳川茂徳、松平容保(会津藩主)、松平定敬(桑名藩主)がいる。
尾張徳川藩は10代藩主から将軍家より養子を迎えていて、下級藩士を中心に支藩出身の藩主誕生が望まれていた。
そんな中、嘉永2年(1849年)に14代藩主に就任した徳川慶勝は、藩祖・義直の遺命である尊皇攘夷を主張し、倹約を掲げた藩政改革を行う。
幕政においては、大老となった井伊直弼が朝廷の勅許なしに日米修好通商条約を調印したため、徳川慶勝は徳川斉昭らとともに江戸城へ不時登城して抗議。
これに対し、井伊直弼は反対派に弾圧を加える「安政の大獄」で反撃を開始し、徳川慶勝は隠居謹慎を命じられて弟・徳川茂徳が尾張藩主になった。
安政7年(1860年)に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、文久2年(1862年)に徳川慶勝は14代将軍・徳川家茂の補佐を命じられる。
また、尾張藩では文久3年(1863年)に徳川茂徳が隠居し、藩主となった徳川義宜の後見としても実権を握った。
その後、慶勝はたびたび上洛するが、元治元年(1864年)の参預会議への参加については辞退している。
幕府は長州征伐(第一次長州征討)を決定すると、徳川慶勝は征討軍総督に任じ、薩摩藩士・西郷吉之助を大参謀とした。
長州征伐では長州藩が恭順の意を示したため、徳川慶勝は寛大な措置を取って凱旋。
その後、再び長州藩は勤王派が主導権を握ったため、幕府は第二次長州征討を決定した。
この時、徳川慶勝は再征に反対し、上洛して御所警衛の任に留まっている。
慶応3年(1867年)に15代将軍・徳川慶喜により大政奉還が行われると、徳川慶勝は新政府の議定に任ぜられ、辞官納地の将軍への通告役となる。
慶応4年(1868年)に鳥羽・伏見の戦いが起こり、徳川慶喜が大坂から江戸へ逃亡した際、徳川慶勝は新政府を代表して大坂城を受け取った。
その後、徳川慶勝は尾張藩内で朝廷派と佐幕派の対立が激化したため、尾張へ戻り佐幕派を弾圧する。
さらに尾張~江戸間の大名や寺社仏閣に使者を送って新政府側につくよう促し、500近くの誓約書を取り付けた。
その後の徳川慶勝は、一橋家当主となっていた弟・茂徳に手紙を送って松平容保、松平定敬の助命嘆願に奔走し、再び政界に立つことなかった。
明治11年(1878年)、旧尾張藩士による北海道八雲町の開拓指導も行ったが、明治13年(1880年)家督を養子の義礼に譲って隠居し、明治16年(1883年)に死去した。享年60歳。