大河ドラマ西郷どん(せごどん)
徳川家慶
大河ドラマ西郷どんで、年始の挨拶にやってきた薩摩藩主・島津斉興に「朱衣肩衝」という茶器を渡す12代将軍・徳川家慶。
諸大名にとって将軍から茶器をもらうということは「今後は茶でも飲んで静かに暮らせ」という隠居勧告を意味していました。
これは父・斉興を隠居に追い込みたかった島津斉彬と、斉彬に藩主になって欲しかった老中・阿部正弘が、将軍・家慶に手を回していたと思われますが、実は家慶自身も若い頃に同じような苦々しい思いをしていたために斉彬を支持したのかもしれません。
今回は、水野忠邦、阿部正弘など優秀な人材を見出した徳川家慶について簡単に紹介します。
徳川家慶
徳川家慶は、寛政5年(1793年)に第11代将軍・徳川家斉の次男として江戸城で生まれた。
兄の竹千代が早世していたために天保8年(1837年)に将軍となったが、家斉が大御所として実権を握っていた。
このため、家慶は家斉と非常に関係が悪かったといわれている。
天保12年(1841年)に家斉が死去すると、家慶は子の中で唯一生き残っていた四男の家定を将軍継嗣に決定。
家慶は、病弱だった我が子・家定よりも水戸藩主・徳川斉昭の子・一橋慶喜(のちの最後の将軍・徳川慶喜)を将軍後継者にしたかったが、阿部正弘に反対されたために家定を後継者にしたという。
その後、家斉派による家定排斥の動きがあり、これを利用して家慶は水野忠邦と共に家斉派を粛清。
そして家慶は、水野忠邦を老中首座に任命して天保の改革を断行した。
水野忠邦は、幕府財政再建のために徹底した倹約、風紀に対する厳しい取り締まりを行い、反対派の言論統制も実施。
高野長英や渡辺崋山などの開明的な蘭学者を弾圧し、人々の反発を招いていった。(蛮社の獄)
天保14年(1843年)、幕府は江戸や大坂周辺の大名などの幕府直轄領編入を目的として「上知令」を発令すると猛反発を受ける。
このため、家慶は「上知令」の撤回を余儀なくされ、水野忠邦は失脚して天保の改革は失敗に終わった。
その後、家慶は阿部正弘らを抜擢して海防問題の難局にあたらせ、薩摩藩のお家騒動(お由羅騒動)に介入して藩主・島津斉興を隠居させたり、水戸藩主・徳川斉昭に隠居を命じたりしている。
家慶は「凡庸の人」といわれるほど、自ら政治を主導することがなかったが、父・家斉の代で腐敗した幕政を水野忠邦を用いて一掃したり、天保の改革が失敗すると水野忠邦を下ろして24歳の阿部正弘を抜擢するなど、優れた人材とそれを使う時期を見る目は優れていた。
嘉永6年(1853年)、ペリーが軍艦を率いて浦賀沖に現れて対策に追われる中で死去した。享年61歳。
熱中症による心不全が原因といわれている。