大河ドラマ麒麟がくる
織田信安
大河ドラマ「麒麟がくる」では、織田信秀、信長親子の悲願である尾張国統一に最後の最後まで抵抗した人物として「織田信安」という人物が登場してきます。
ドラマの序盤では、清須城の織田彦五郎信友が織田信秀、信長親子の邪魔をして苦しめていますが、織田信安も尾張国守護代家に生まれたプライドからか斎藤高政(義龍)と連携して信長に抵抗していきました。
この記事では、信長の幼馴染であった「織田信安」がやがて敵対心を抱き、転落人生を歩んでいく生涯を紹介していきます。
織田信安(1502~1591)
尾張の守護代・織田氏は清須城を拠点にして尾張下四郡を支配する「織田大和守家(以下、大和守家)」と、岩倉城を拠点にして尾張の上四郡を支配する「織田伊勢守家(以下、伊勢守家)」がありました。
織田信安はもともと祖父・織田敏定以前から続いてきた「大和守家」の系統でしたが、父とされる織田敏信の死後に「伊勢守家」の当主として岩倉城に迎えられたといいます。
出典:https://tomhan090.exblog.jp/
岩倉城に入った当初、信安はまだ幼かったために「弾忠正家」織田信秀の弟で犬山城主・織田信康の補佐を受けていたといわれます。
この頃の「弾正忠家」は交易の要衝・津島、熱田を抑えて圧倒的な経済力を誇り、実力の上では主家である「大和守家」や「伊勢守家」を凌ぐ勢力となっていました。
そんな中で成長していった信安と信長は、一緒に猿楽などを楽しんだ仲であったといいます。
しかし、信秀が死去すると信安は犬山城主・織田信清(信康の子)と所領問題で争うようになります。
その遺恨から、やがて信長と敵対するようになっていった信安は、天文22年(1553)に信長と内応した疑いで家老・稲田大炊助を誅殺しました。
弘治2年(1556)、信長の最大の理解者だった斎藤道三が子の義龍に討たれると、信安は義龍と連携し、表立って信長と敵対するようになりました。
また、同年に信長の弟・信勝が反乱を起こした際にも信光は信勝に味方しています。
しかし、共に信長に対抗していた「大和守家」は守護・斯波氏への謀反ですでに信長によって潰されており、永禄元年(1558)に信勝も謀殺されると尾張での反信長勢力は信安だけになりました。
そして信安は「伊勢守家」の家督を長男・信賢ではなく、次男・信家を譲ろうとし、これに憤った信賢によって逆に岩倉城から追放されてしまいました。
信賢が継いで間もなく「伊勢守家」は浮野の戦いで信長に敗れて滅亡。
信安は尾張に帰還することなく、斎藤義龍の家臣となり、義龍死後はその子・龍興にも仕えて信長に抵抗しましたが、やがて斎藤氏も滅ぼされ、信安は京都に逃れました。
晩年、同族の誼から信長に許された信光は美濃白銀に所領を与えられ、最後は安土総見寺の住職となって天正19年(1591)に死去しました。
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