大河ドラマ「麒麟がくる」
近衛前久
大河ドラマ「麒麟がくる」で本郷奏多が演じるのが、破天荒な公家・近衛前久。
NHK公式でも近衛前久は「若き関白。その類いまれなる行動力で、公家でありながら自ら政治に介入する」とあるように、武家中心の戦国時代において積極的に表舞台に立とうとした一風変わった男です。
それでは上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など超有名大名と関係を持っていたぶっ飛んだ公家・近衛前久について簡単に紹介していきます。
近衛前久
武家らしい公家
近衛前久は天文5年(1536)、公家の近衞稙家の長男として生まれました。
元服して幕府12代将軍・足利義晴から偏諱を受けて「晴嗣」を名乗っていましたが、関白左大臣、藤氏長者に就任すると天文24年(1555)には「晴」の字を捨てて名を「前嗣」と改めました。
前嗣は永禄2年(1559)に上洛した越後の長尾景虎(上杉謙信)と懇意となり、翌年には越後に下向。
名を「前久」と変えて景虎の関東平定に協力し、頼りにもされていましたが、やがて前久は平定が一向に進まないために京に戻り、景虎を怒らせたとされています。
永禄8年(1565)、将軍・足利義輝が暗殺される事件が発生すると、実行犯の三好三人衆から頼られた前久は、三人衆が推す足利義栄の将軍就任を決めました。
しかし、永禄11年(1568)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛したため、前久は将軍となった義昭と前関白である二条晴良から暗殺事件への関与を疑われ、朝廷から追放されてしまいました。
その後、前久は丹波国の赤井直正を頼ったあと、摂津国の石山本願寺に移ります。
ここで前久は三好三人衆の依頼を受け、信長包囲網に本願寺顕如の参加を促しましたが、前久の目的は義昭と二条晴良の排除にあったようで、天正元年(1573)に信長が義昭を追放し、二条晴良とも関係が悪化すると、しだいに前久は信長包囲網から離れて信長と接近することになりました。
天正3年(1575)に京に戻り、信長と親交を深めた前久は要請に応じて九州へ赴き、諸大名の和議を図って信長が計画する毛利包囲網の形成に協力しました。
また、前久は信長と顕如の調停に乗り出し、石山本願寺を開かせて信長から高い評価を得ています。
その後、前久は甲州征伐に同行するなど信長の天下統一に協力していましたが、本能寺の変が起こると織田信孝や羽柴秀吉から事件への関与を疑われました。
このため、前久は徳川家康を頼って浜松に逃れ、誤解を解いてもらいましたが、直後に秀吉と家康の対立が始まり、巻き込まれることを恐れた前久は両者の和議成立まで奈良に身を寄せることにしました。
和議成立後、再び京に戻った前久は隠棲生活に入り、慶長17年(1612)に享年77で死去しますが、関ヶ原合戦時には東軍、西軍の両方と関係を持つなど、隠棲しながらもしたたかに行動していました。
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