大河ドラマ西郷どん(せごどん)
中村半次郎(桐野利秋)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)の第3話「子供は国の宝」で、登場したのは幼少期の中村半次郎。
芋泥棒と呼ばれ、大人たちにボコボコにされそうになった半次郎は、木刀を抜くとあっという間に大人たちを返り討ち。
一部始終を見ていた西郷吉之助(隆盛)も、あっけにとられます。
その後、貧しさのあまり夜逃げをしようとした半次郎一家。
たまたま現場に出くわした西郷は、侍としての誇りを捨てていない半次郎の言葉に心動かされ、自分が何とかすると約束しました。
こうして西郷によって助けられた中村半次郎は、大河ドラマの第27話で成長して再登場します!
こののち、西郷隆盛と最期を共にする重要な人物になっていった中村半次郎。
今回は、「人斬り半次郎」と恐れられた中村半次郎(桐野利秋)の生涯について簡単に紹介していきます。
成長した中村半次郎
中村半次郎
中村半次郎は、天保9年(1838年)に城下士の中村与右衛門(桐野兼秋)の5人兄弟の第三子として誕生。
母は帖佐小右衛門の次女、ヒサ。
半次郎が10歳の頃、父が徳之島に流罪に処せられ、家禄5石を召し上げられた。
その後、兄が家を支えていたが、半次郎が18歳のときに兄が病没し、中村家は小作や畑を開墾し暮らしていた。
大河ドラマ西郷どんでは、幼少期の半次郎が登場し、西郷吉之助(隆盛)の前で見事な太刀さばきを披露。
その後、貧しさのあまり夜逃げをしようとした半次郎一家を西郷は引き止めて、力になることを約束している。
逸話で残っているもので印象的なのは、半次郎が西郷に手土産に芋を持ってきて「共にくわえてほしい」とお願いした話で、西郷の弟(吉二郎?信吾?)が「芋侍め!」とバカにしたところ、
西郷は「これは半次郎が汗水たらして収穫したもの。誠がこもっている。私はどうやってこの篤い志に報いようかと考えている」と言って弟をたしなめたとか。
その後、成長した半次郎は薩摩藩士として活躍する舞台を与えられていくことになった。
文久2年(1862年)、半次郎は島津久光に伴って上京、尹宮(朝彦親王)を護衛する。
過激派の薩摩藩士を粛清した寺田屋事件には、旧知の友も多く関わっていたが、半次郎は直接関係しなかった。
半次郎は、諸国の志士たちと広く交友する中で、討幕を唱えるようになり、家老・小松帯刀に特別に引き立てられて、藩の重臣からも重用されるようになった。
半次郎は長州藩邸にも出入りしていたため、長州寄りの考えを持っており、薩摩と長州の和解の道を探るべく、薩摩藩を脱藩して長州国許への探索を願い出た。
長州へ向かった半次郎であったが、藩境でとめられ入国できず、その後長州は尊皇攘夷派が暴発して禁門の変が起こった。
このため、半次郎は薩摩藩兵として長州勢と戦わざるをえなかった。
天狗党の乱に際しても、半次郎は小松帯刀に嘆願して天狗党の首領・武田耕雲斎と藤田小四郎に面会した。
慶応2年(1866年)、伏見奉行所の役人に坂本竜馬が襲撃された寺田屋事件のあと、半次郎は薩摩藩邸で静養する龍馬を毎日のように見舞っている。
慶応3年(1867年)には太宰府の三条実美ら五卿のもとを訪れ、長州藩士・木戸孝允や中岡慎太郎などと親交をあたためた。
この年、薩摩藩で陸軍教練をしていた公武合体派の軍学者・赤松小三郎を、幕府の密偵として白昼暗殺。
「人斬り半次郎」と言われることがあるが、記録がある暗殺はこの1件だけである。
また、坂本龍馬が暗殺された際には、犯人捜しや海援隊・陸援隊との連絡などに奔走し、葬儀の直後に墓参りをしている。
御陵衛士・伊東甲子太郎らが新選組により殺害された油小路事件時、逃げてきた御陵衛士の隊士を薩摩藩邸に匿っている。
勝海舟は、京都で政局を動かしていた薩摩人8人の1人として、西郷、大久保、小松などと肩を並べて半次郎の名を挙げている。
戊辰戦争で、半次郎は城下一番小隊に属して伏見で戦い、東征大総督府下参謀・西郷隆盛の下で城下一番小隊隊長に抜擢されて駿府・小田原を占領した。
半次郎は、静岡での西郷隆盛と山岡鉄舟の会談、江戸での西郷隆盛と勝海舟の会談にも同席したといわれ、上野の彰義隊との戦いにも参戦した。
この戦いののち、半次郎は一刀流の剣客・鈴木隼人ら3人の刺客に襲われ撃退するも、左手中指と薬指を失う怪我を負う。
その後、半次郎は大総督府直属の軍監に任じられ、鹿児島・宇都宮の2藩兵を率いて会津に向かう。
会津藩が降伏した後、官軍を代表して城の受け取り役を務めたのが半次郎であった。
このとき、半次郎は城中の会津藩士に親身に思い、涙を流して接した。
会津藩主・松平容保は半次郎に感謝し、のちに宝刀を贈ったといわれる。
明治2年(1869年)、半次郎は鹿児島常備隊の第一大隊隊長に就任したほか、鹿児島と中央政府をつなぐ重要な役割を果たしていた。
その後、半次郎は陸軍少将に任じられ、函館を視察。札幌に鎮台を設置する必要性を説き、屯田兵設置の布石を作った。
明治5年(1872年)、半次郎は熊本鎮台の司令長官に任命され、熊本に赴任。その後、陸軍裁判所所長を兼任したが、征韓論争で西郷隆盛が下野すると、半次郎も辞職して鹿児島に帰郷した。
鹿児島へ帰った半次郎は、原野を開墾して日を過ごし、鹿児島の私学校では吉野開墾社を指導して開墾事業に励んだ。
明治10年(1877年)、鹿児島の私学校を快く思わない政府による火薬庫襲撃事件・西郷刺殺計画が露見すると、私学校では半次郎が主導のもと評議が行われて、大軍を率いて北上することを決定した。
半次郎は四番大隊指揮長と総司令を兼ね、ここに西南戦争が勃発。
薩軍の大隊は熊本鎮台を包囲し、半次郎は正面軍を指揮したが熊本城はなかなか落ちなかった。
また、半次郎らが主張する全軍攻城論と分進論が折り合わず、軍議が長引く間に政府軍の南下を許す。
半次郎は熊本城攻囲を任せて、政府軍を挟撃しようとしたが失敗。
薩軍が熊本城攻めから退却したとき、半次郎は殿(しんがり)となって退却軍を指揮した。
その後、しばらく半次郎は人吉の本営で指揮していたが、戦況が不利と見て宮崎に赴き、西郷を迎えて本営とした。
以降も政府軍の前に連敗した半次郎は、包囲網をなんとか突破して鹿児島へ帰った。
薩軍は鹿児島に入ると城山を占拠。
一時、薩軍は鹿児島城下を制したが、政府軍に巻き返されて城山を包囲された。
この時、山野田一輔・河野主一郎が「西郷救命」の軍使となって政府軍に出向いたとき、半次郎は激怒したと言われている。
そして政府軍が城山を総攻撃し西郷が自決すると、自決を見届けた半次郎は最後の抵抗。
半次郎は、額を打ち抜かれて壮絶な死を遂げた。享年40歳。
オシャレに気を使っていた半次郎は、フランス製のオーダーメイドの軍服に身を包み、軍刀も純金張の特注品を愛用、戦死した際にも遺体からは香水の香りがしていたといわれている。