大河ドラマ西郷どん(せごどん)
阿部正弘
大河ドラマ西郷どんで、島津斉彬の良き相談相手として登場する藤木直人が演じる阿部正弘。
阿部正弘は、幕府の中でもかなり力を持った若きエリートの雰囲気。
また、藤木直人が演じることで人気の出そうなキャラなんですが、調べてみると実際の阿部正弘は超デブだったみたい(笑)。
今回は、日本を開国に導いた阿部正弘について簡単に紹介します。
阿部正弘
阿部正弘は、文政2年(1819年)に備後福山藩主・阿部正精の五男として江戸で誕生。
父の死去後、兄が家督を継いだが病弱であったため、10年後に正弘が家督を継いだ。
阿部正弘は幕府より寺社奉行に任じられ際、徳川家斉時代にあった大奥と僧侶の乱交事件が発覚。
この事件に対し、阿部正弘は将軍の非を表に出さず、寺社奉行として僧侶らだけを処断した。
これが第12代将軍・徳川家慶の目に止まり、阿部正弘は重宝されるようになったという。
そして天保14年(1843年)、阿部正弘は25歳にして老中となった後、天保の改革の際の不正を理由に老中首座・水野忠邦を追い落として自分が老中首座となった。
この頃、日本は度重なる外国船の来航に揺れていた。
阿部正弘は、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭など諸大名から広く意見を求め、大胆な人材登用を行うなどの対応をする。
しかし、アメリカやロシアから執拗に通商を求められた阿部正弘は、有効な対応策を打ち出すことができなかった。
また、諸大名を幕政へ介入させたため、幕府の権威が弱まり、雄藩の発言力の強くなる原因を作ってしまう。
嘉永7年(1854年)、阿部正弘は事態を穏便にまとめる形で日米和親条約を締結し、ついに日本は開国することになった。
開国を決断した阿部正弘であったが、安政2年(1855年)に攘夷派である徳川斉昭の圧力に押されて開国派の老中を罷免してしまう。
これが開国派の井伊直弼らの怒りを買い、阿部正弘は幕府内で孤立。
阿部正弘は両派の融和を図るため、開国派の堀田正睦を老中に起用して老中首座を譲った。
また外交問題以外でも、将軍継嗣問題で一橋慶喜を推す阿部正弘、島津斉彬、徳川斉昭ら一橋派と、徳川慶福を推す井伊直弼ら紀州派の対立も顕在化していた。
そんな中でも阿部正弘は、勝海舟、永井尚志らを登用して海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを次々と創設するなど「安政の改革」と呼ばれる幕政改革を行っていたが、安政4年(1857年)、39歳にして急死。
阿部正弘の若すぎる死に対し、病死、過労死のほか、外様大名を幕政に組み込ませた阿部を憎んだ譜代家臣の暗殺説まで囁かれた。
阿部正弘の死後まもなく、井伊直弼が大老に就任して「安政の大獄」が始まる。