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大河ドラマ西郷どん(せごどん)島津久光 マザコン?「国父」として幕末の薩摩藩を引っ張った西郷生涯の敵・島津久光とは

投稿日:2018年1月1日 更新日:

大河ドラマ西郷どん(せごどん)
島津久光

大河ドラマ西郷どんで、西郷吉之助(隆盛)の「生涯の敵」」として描かれるのが青木崇高が演じる島津久光。

有能な兄・島津斉彬と比べられたマザコン島津久光は、「お由羅騒動」で周りに担ぎ上げられるようなかわいそうな面もありますが、のちに薩摩藩の最高権力者として君臨していきます。

お互いが嫌い合う仲であった島津久光と西郷吉之助(隆盛)ですが、根本的には「日本」を良くしたいという思いは同じ。

その後、二人は複雑な感情を抱きながらも「倒幕」に向けて突き進んでいくことになり、これこそ大河ドラマ西郷どんの見どころの一つと言っていいでしょう。

今回は、結構すごいことやってるのに、なぜか悪役のイメージがついてしまう島津久光について簡単に紹介していきます。

 

 

出典:https://www.instagram.com/

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島津久光

島津久光は島津家27代当主・島津斉興の五男。28代当主・斉彬の異母弟で、29代当主・茂久(忠義)の父にあたる。

斉彬死後、薩摩藩の事実上の最高権力者として公武合体運動を推進した。

 

文化14年(1817年)、薩摩藩主・斉興と側室・お由羅の方の間に誕生。

文政元年(1818年)に叔父にあたる島津忠公の娘・千百子と婚姻し、同家の婿養子となる。

文政11年(1828年)、斉興が烏帽子親となり元服、忠教(ただゆき)を諱を名乗る。

父・斉興は、お由羅と久光を溺愛し、後継者を久光にしようと考えていた。

このため、薩摩藩は斉彬擁立派と久光擁立派が対立し、お家騒動(お由羅騒動)に発展。

兄弟間で激しい後継者争いを繰り広げられた事件であったが、二人の仲は決して悪いものではなく、久光は反斉彬派に担がれたような形だった。

その後、斉彬擁立派は厳しい弾圧を受けたが、結果的に幕府の介入を許し、嘉永4年(1851年)に斉興が隠居して、斉彬が薩摩藩主となった。

 

 

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安政5年(1858年)に斉彬が急死すると、遺言により久光の子・茂久が藩主に就任する。

斉彬が自らの子や久光を藩主に指名しなかったのは、お家騒動の再燃を防ぐためだった。

茂久の後見として実権を再び握ろうとした父・斉興が安政6年(1859年)に死去すると、久光は藩主の実父「国父」として政治的影響力が拡大。

文久元年(1861年)に島津宗家へ復帰し、藩政の実権を握りって名を「久光」に改めた。

その後、久光は小松帯刀とあわせて大久保利通・海江田信義らで構成された「精忠組」のメンバーを登用して藩政を進める。

 

文久2年(1862年)に久光は、朝廷・幕府・雄藩の政治的提携を目指す公武合体運動を推進するため兵を率いて上京。

この京都滞在中に、久光は寺田屋に集結していた有馬新七ら薩摩藩の尊王攘夷過激派を粛清した(寺田屋事件)。

また、上京にあたり西郷吉之助(隆盛)の命令違反を知って島流しにする。

藩内有志の嘆願によって、のちに西郷を赦免したが、久光はかなりイヤイヤ認めたような形だった。

 

その後、朝廷に対する久光の働きかけにより、一橋慶喜の将軍後見職、松平春嶽の政事総裁職の就任を実現させた(文久の改革)。

江戸に上がって目的を達成した久光は帰京する際、武蔵国の生麦村で久光一行の行列を妨害したという理由で、薩摩藩士がイギリス人を殺傷する事件を起こし(生麦事件)、これによって翌年には薩英戦争へと発展した。

 

 

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文久3年(1863年)、京都では長州藩ら尊王攘夷派の勢いを増してきたため、天皇の支持を得て薩摩藩と会津藩を中心に「八月十八日の政変」を起こし長州藩を京都から一掃。

久光の意見で、朝廷会議に有力諸侯を参画させることになり、一橋慶喜、松平春嶽、山内容堂、伊達宗城、松平容保が朝議参預を命じられた。

翌元治元年(1864年)に久光も参預に任命されたが、一橋慶喜と久光らとの間に政治的対立が生じ参預会議は崩壊。

久光は参預を辞任して、小松帯刀や西郷隆盛らに後を託して薩摩に戻った。

 

慶応2年(1866年)、久光はイギリス公使ハリー・パークスの一行を鹿児島に迎え、薩英戦争の講和から薩摩藩とイギリスの間の友好関係を築く。

慶応3年(1867年)に久光が再度上京するまでの間に、中央では禁門の変や長州征討、薩長盟約の締結、将軍・徳川家茂の薨去、徳川慶喜の将軍就職、孝明天皇の崩御など状況は一変。

上京した久光は、松平春嶽・山内容堂・伊達宗城とともに四侯会議を開催し将軍・慶喜と協議した。

しかし慶喜との会談でまたしても紛糾し、久光ら薩摩藩は武力倒幕を決断した。

その後、薩摩に戻った久光へ討幕の密勅が下され、朝廷より上京が命じられるが、久光は病のために藩主・茂久が藩兵を率いて入京し戊辰戦争へと発展していった。

 

 

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久光は、維新後も藩における権力を握っていたが、新政府が進める改革に批判的立場をとり、藩体制の改革を要求する藩士らとも対立する。

明治3年(1870年)に大久保利通が、久光と西郷隆盛へ政府に協力するよう促すために帰藩するが、不満を持つ二人は拒否。

勅使・岩倉具視が再度やってきた際、西郷は上京に同意したが、久光は病を理由に断った。

西郷や大久保らが主導した廃藩置県が断行されると、久光は激怒。

久光は抗議のため、自邸の庭で一晩中花火を打ち上げた。

薩摩の旧藩領が、鹿児島県と都城県とに分けられることになると、久光はこれを「長州の陰謀」だと疑い、自分は鹿児島県令就任を希望する。

その後も久光は、政府の改革方針に反対する意見書を出すなど、政策に対して反発を続けた。

 

明治10年(1877年)に政府に対する西郷らの蜂起、西南戦争が始まると、政府は久光の動向を心配し上京を促したが、久光は中立の立場にあることを表明し、戦火を避けるために桜島に一時避難した。

西南戦争後も政府は久光の処遇に困り、最高級の叙位・叙勲などでもてなした。

明治20年(1887年)に久光死去。享年71歳。政府への反抗心から生涯髷を切らず、帯刀・和装をやめなかったという。

 

 

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