大河ドラマ麒麟がくる
日根野弘就
大河ドラマ「麒麟がくる」では主要キャラではありませんが、伊藤英明の演じる斎藤高政(義龍)の家臣として「日根野弘就」という武将が登場します。歴史上でもかなりマイナーな武将に分類される「日根野弘就」ですが、この人は父の道三を倒そうとする斎藤高政の信頼を勝ち取り、のちに斎藤家の重臣にまで成長していく、なかなか有能な人物でありました。この記事では少し優柔不断なところもありますが、流浪の武人として数奇な生涯を送る「日根野弘就」について簡単に紹介しています。
日根野弘就(?~1602)
忠臣
日根野氏は和泉国日根の地を発祥とする一族で、日根野九郎左衛門の代に一部の一族が美濃国に移住したといわれています。
日根野弘就は九郎左衛門の長男として生まれ、美濃国の守護代・斎藤道三に仕えていました。
しかし、次第に道三とその嫡男・義龍が対立するようになると、弘就は義龍側について頭角を現していきます。
弘治元年(1555)、義龍の命で弘就は、道三が寵愛する義龍の異母弟たち(孫四郎、喜平次)を斬殺して信頼を獲得し、義龍が美濃国の支配者になると弘就は斎藤家の重臣として扱われることになりました。
義龍死去後、弘就は子の斎藤龍興に忠節を尽くし、織田家と内通の疑いがあった西美濃三人衆を牽制するために近江国の浅井長政を動かし、西美濃三人衆の領地への出兵を促しています。
しかし、永禄7年(1564)に安藤守就と竹中半兵衛による稲葉山城占拠事件が起こった際は、弘就も龍興と共に稲葉山城を一時退去させられ、しばらくして城に戻っても安藤らを討伐することもできないほど斎藤家は衰えていました。
弘就は織田信長の美濃侵攻を幾度もはねかえす活躍をしましたが、西美濃三人衆が織田側に寝返ると形勢は一気に傾き、永禄10年(1567)に稲葉山城は織田家に落とされ、斎藤家は滅亡して弘就ら日根野一族は浪人となりました。
優柔不断
放浪ののち、弘就ら日根野一族は遠江国の今川氏真に召し抱えられ、徳川家康との戦で戦功を重ねます。
しかし、やがて今川氏も徳川氏に降伏すると、弘就はまたしても浪人となり、西に戻って近江国の浅井長政に仕えました。
こののち浅井家を去った弘就は、伊勢国の長島一向一揆に参加し、再び織田家との抗争に渦に飛び込んでいきます。
一揆を主導する本願寺顕如は越前国の朝倉氏の支援を受けた斎藤龍興と長島の弘就による美濃挟撃計画を立てましたが、これは雪で朝倉軍が引き上げたために成功することはありませんでした。
天正2年(1574)、織田家の総攻撃で長島一向一揆が壊滅。
何とか脱出に成功した弘就は浪人生活ののち、ついに織田信長のもとに降りました。
信長の馬廻となった弘就は一族を率いて天正3年(1575)の越前一向一揆討伐などで活躍し、信長から高い評価を得ましたが、天正10年(1582)に本能寺の変が起こり、主君をまたしても失います。
この時、京にいた弘就は本能寺、二条城の状況把握に努めて静観し、誰の味方もせずにやり過ごしました。
そして天下の趨勢が羽柴秀吉に傾きつつあった頃、弘就は羽柴家に臣従して伊勢や尾張を転戦し、小牧・長久手の戦いでは羽柴軍の殿を努めています。
四国攻めの後、弘就は秀吉を怒らせて一時追放されましたが、天正18年(1590)には許されて復帰を果たし、文禄・慶長の役では朝鮮にも渡海したといいます。
そして関ヶ原の戦いでは、弘就はどちらの味方もせずに減封処分を受け、慶長7年(1602)に死去しました。
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