大河ドラマ西郷どん(せごどん)
江藤新平
大河ドラマ西郷どん(せごどん)では、明治維新後の新政府において様々な人物が新たに登場してきます。
みんな、基本的には脇役なのですが、その中でも一番物語に関わってくるのが迫田孝也が演じる「江藤新平」という人物。
大久保利通らが欧米に視察に行っている間、西郷隆盛と共に留守政府を任された江藤新平は、今こそ政府の主導権を握るチャンスと考えていました。
この記事では、大久保利通と対立し「佐賀の乱」を引き起こす「江藤新平」について簡単に紹介しています。
江藤新平
志士・江藤新平
江藤新平は天保5年(1834)に肥前国佐賀藩士・江藤胤光の長男として生まれた。
父は下級武士であったが、江藤新平は勉学に励んで藩校の弘道館へ入学し、学費の一部を免除されるまで優秀な成績を残した。
しかし、父が職務怠慢によって免職となると生活は困窮し、髪の毛はボサボサ、服はボロボロの新平は「人智は空腹よりいずる」と強がっていたという。
やがて国学者の枝吉神陽のもとで学んだ江藤新平は、神道や尊皇思想の影響を受け、嘉永3年(1850)に枝吉神陽が結成した「義祭同盟」に大隈重信・副島種臣らとともに参加した。
また、この頃相次いだ外国船来航の影響を受け、江藤新平は安政3年(1856)に開国の必要性を説いた『図海策』を執筆している。
その後、江藤新平は藩の洋式砲術、貿易関係などの役職を務めたが、文久2年(1862)に脱藩して京都で活動。
わずか2ヶ月間であったが、長州藩士・桂小五郎や公家の姉小路公知らと接触していた。
藩に戻った江藤新平は見識を高く評価され、通常は死罪だった脱藩の罪を軽減され、無期限の謹慎となる。
しかし、江藤新平は謹慎中も寺子屋で学問を教え、同士と交流したり、長州征伐での出兵問題では献言を行うなど政治的活動を続けた。
慶応3年(1867)、将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、江藤新平は謹慎を解除されて藩政に復帰。
そして、新政府が誕生すると佐賀藩も参加し、江藤新平は副島種臣とともに京都に派遣された。
戊辰戦争では、江藤新平は東征大総督府軍監に任命されて江戸城内の文書類を接収し、岩倉具視に「江戸」を「東京」と改称すべきことを献言した。
また、上野寛永寺に立て籠る旧幕府勢力「彰義隊」には、大村益次郎らとともに討伐を主張して、佐賀藩のアームストロング砲を使って半日で殲滅する働きを見せた。
戊辰戦争が終結すると、江藤新平は会計局判事に任命されて民政や会計、財政、都市問題などを担当。
また、江藤新平の献言が通って明治天皇が行幸し、「江戸」は「東京」と改称された。
司法卿・江藤新平
明治3年(1870)、江藤新平は佐賀に帰郷して藩政改革を行っていたが政府に呼び戻され、中央政府に関わることとなる。
江藤新平は近代的な集権国家と四民平等を説き、フランスの法制度を模倣した法整備を主張。
司法卿、参議と数々の役職を歴任し、学制の基礎固め・四民平等・警察制度整備など近代化政策を次々と推進した。
江藤新平は自分が低い身分の出身だったため、司法卿になっても偉そうに振る舞わなかった。
このため、政府での職に就こうとする者は、先ずは江藤新平を訪ねて採用を頼んだので訪問者が絶えなかったという。
また、この頃に狩猟中のフランス公使が誤って農夫を撃ち、死亡させる事件が起こった。
すぐに羅卒(警察官)が公使と知らずに屯所に連行したが、取調べ中に公使が連行した無礼を怒って騒ぎ立てる。
西郷隆盛は「仕方が無いから、連行した羅卒(警察官)に切腹させて謝罪しよう」と言ったが、司法卿の江藤新平は「羅卒(警察官)の行為は職務を執行しただけで落度は無い。罪無き羅卒(警察官)に死を命じるのは法に背くことになる。ここは私に任せて欲しい」と公使との談判を引き受けた。
そして江藤新平は公使に「公使と知らずして無礼を働いた羅卒(警察官)は、あなたの気の済むように処分するが、あなたもまた過失殺傷の罪に問うてよいか?それとも互いに譲歩して無かったことにするか?」と説き、公使に自らの過失を謝らせて穏便に収めたという。
征韓論争
司法制度の整備に力を入れた江藤新平は、新政府で力を持っていた長州閥の山縣有朋や井上馨の汚職事件を厳しく追及し、2人を辞職に追い込んでいる。
しかし、その一方で「行政=司法」と考える政府内の保守派からは激しく非難されたりもしていた。
特に大久保利通からは 「秦の商鞅と似ている」と揶揄されている。
明治6年(1873)、征韓論争で敗北した江藤新平は西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野。
明治7年(1874)に「愛国公党」を結成して、民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。
江藤新平は「帰郷することは大久保利通の術策に自らハマリにいくものだ」と忠告されても、全く耳を貸さなかった。
その後、江藤新平は佐賀へ入って「憂国党」の島義勇と会談を行い、「征韓党」の首領として擁立されて反乱を計画。
大久保利通も江藤新平の離京を知って、佐賀討伐を決定していた。
佐賀の乱
士族反乱である佐賀の乱が勃発すると、江藤新平率いる佐賀軍は県庁の置かれていた佐賀城を攻撃した。
さらに佐賀軍は福岡との県境へ前進して大久保利通が率いる政府軍部隊を迎え撃った。
一時佐賀軍が優勢に進めたこともあったが、やがて政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走。
江藤新平は「征韓党」を解散して逃亡し、鹿児島の西郷隆盛に会って薩摩士族の旗揚げを請うた。
しかし、西郷隆盛から断られた江藤新平は、続いて高知を訪ねて武装蜂起を説くが失敗に終わる。
このため、江藤新平は岩倉具視への直接意見陳述を試みようとしたが、その途上で捕縛され佐賀へ送還となった。
この時、江藤新平は自分の手配写真が出回っていたために簡単に捕らえられてしまったという。
手配写真の制度は、江藤新平自身が確立したもので、適応第一号が自分となってしまった。
その後、江藤新平は佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれる。
そして江藤新平は釈明の機会も十分に与えられないまま処刑となり、首はみせしめとしてさらされた。
辞世は、「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 迷う心はただ君がため」
勝海舟は江藤新平の才能を認めつつも 「ピリピリしていて実に危ない」と評していた。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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