大河ドラマ西郷どん(せごどん)
三条実美
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で野村万蔵が演じるのが尊皇攘夷派の公家として名を馳せた「三条実美(さんじょうさねとみ)」。
「三条実美」は幕末の公家の中では岩倉具視と並ぶほどの有名人ですが、三条家は藤原氏北家、閑院流の嫡流にあたる名門であるのに対し、岩倉家は村上源氏久我家から江戸時代に分家した新家であり、その身分には雲泥の差がありました。
幕末にこの二人は尊王攘夷と公武合体という二つの思想の違いから真逆の立場にありましたが、明治維新後はお互いが政府内で大きな発言権を持ち、政治の中核をなしていきました。
この記事では、内閣制度施行前の明治政府のトップである太政大臣にまでなった「三条実美」の生涯について簡単に紹介しています。
三条実美
三条実美は、天保8年(1837)、三条実万の三男として生まれた。
安政元年(1854)、兄の早世により家を継いだ三条実美は、父と同じく尊王攘夷派の公家として活動を始めた。
桜田門外の変で大老・井伊直弼が殺されると、尊王攘夷運動は最盛期を迎え、三条実美は勅使となって14代将軍・徳川家茂に攘夷を督促した。
その後、長州藩との関係を深めた三条実美は、姉小路公知と共に孝明天皇の大和行幸を企画するなど過激な行動が目立つようになる。
しかし、文久3年(1863)に天皇の意を受けた公武合体派の公卿は、薩摩藩・会津藩と連携して、朝廷から尊皇攘夷派を追放するしたクーデター(八月十八日の政変)を起こした。
これにより三条実美は京都を追われ、長州で匿われることとなった(七卿落ち)。
その後、長州征伐が起こると長州藩は幕府に恭順の意を示し、三条実美を福岡藩に預ける。
約3年間の幽閉生活中には、薩摩藩の西郷隆盛や長州藩の高杉晋作、坂本龍馬などの訪問を受け、時勢について語り合ったという。
幕末には尊攘派の公家として活動する一面、極めて公家風の雰囲気を持つ温和な人物であり、明治にはその温和な性格から、政府内の対立を調停する役割も果たした。
慶応3年(1867)の王政復古により、三条実美は新政府で議定に任じられて政治復帰し、その後は副総裁、右大臣、太政大臣にまで登りつめていった。
幕末には過激な尊皇攘夷思想を持っていた三条実美であるが、普段は極めて公温和な人物であったため、明治には政府内の対立を調停する役割を求められての昇進だった。
しかし明治6年(1873)、政府内で西郷隆盛らの征韓派と岩倉具視や大久保利通らの反対派が激しく対立。
三条実美は板挟みになってノイローゼに陥り、岩倉具視が太政大臣代理となることで征韓論は決着した。
太政大臣・三条実美は名目上、常に明治政府のトップとして牽引していく立場にあったが、明治18年(1885)に伊藤博文によって太政官制は廃止となり、内閣総理大臣がそれに代わることとなった。
この内閣制度への移行に際し、三条実美が初代内閣総理大臣になると予想されていた。
しかし、宮中で開かれた会議では、伊藤博文の盟友・井上馨が「これからの総理は英語が読めなくてはだめだ」と発言し、山縣有朋もこれを擁護して三条支持派を黙らせる。
そして初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任し、三条実美には名誉職である内大臣職が宛てがわれることとなった。
最後まで太政官制の廃止に抵抗していた三条実美であったが、決定事項には快く従い、名誉職である事を承知の上で内大臣を引き受け、伊藤博文の総理就任を祝ったという。
明治22年(1889)、第2代内閣総理大臣・黒田清隆と全閣僚が辞表を提出した際、明治天皇は黒田清隆の辞表だけを受理し、内大臣・三条実美に内閣総理大臣を兼任させて内閣を存続させた。
しかし、その後三条実美には何の沙汰もなく、約2ヶ月後には天皇が大命を下し、山縣有朋が第3代内閣総理大臣に就任する。
一見、異常ともいえるこの一連の流れは、内大臣という実態のない境遇を気の毒に思った明治天皇の最後のはからいだったのかもしれない。
その後、明治24年(1891)に三条実美はインフルエンザにより死去。享年55。
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