大河ドラマ西郷どん(せごどん)
薩土盟約
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で、薩摩藩と土佐藩の間で締結される「薩土盟約」。
この盟約の前には、武力討幕を目指して西郷吉之助(隆盛)と土佐藩士・乾退助が「薩土密約」という軍事同盟を締結していましたが、今回紹介する「薩土盟約」は密約締結直後に『大政奉還』を念頭に入れ、平和的解決を狙った薩摩藩と土佐藩の同盟です。
この記事では、武力討幕路線をひた走っていた薩摩藩が、突然平和路線に変更したかに見える「薩土盟約」について簡単に紹介します。
平和的解決?それとも・・・
薩土盟約
「薩土盟約」は慶応3年(1867)6月から9月までの薩摩藩と土佐藩の間に結ばれていた、平和的手段で幕府から朝廷へ政権返還させることを目的とした政治同盟。
乾退助、西郷隆盛らが武力討幕を目的として私的に結んだ「薩土密約」とは大きく違うもので、「薩土盟約」は武力討幕をを目指していた薩摩藩に、土佐藩が大政奉還・王政復古によって平和的解決を提起した連携案であった。
「薩土盟約」は武力討幕をを目指していた薩摩藩に、土佐藩が大政奉還・王政復古によって平和的解決を提起した連携案であった。
これに薩摩藩が乗る形になったが、結局は両藩の思惑の違いにより2か月半で解消されてしまう。
徳川慶喜の将軍就任直後、薩摩藩は政治の中心を幕府から雄藩諸侯の合議へ変革すべく、有力諸侯であった前宇和島藩主・伊達宗城、前土佐藩主・山内容堂、前越前藩主・松平春嶽らを京都に呼び寄せ、薩摩藩の国父・島津久光とともに「四侯会議」を成立させた。
しかし、この「四侯会議」は、なおも政局を主導しようとする徳川慶喜によって振り回されて崩壊。
ここから薩摩藩は「薩長同盟」に基づき、慶喜の打破、幕府との武力対決路線へと舵を切ることとなった。
そして、土佐藩の武力討幕派の乾退助(板垣退助)らと、西郷隆盛らが「薩土密約」を結ぶことになったが、土佐前藩主・山内容堂は徳川恩顧の立場であったため公式なものではなく、私的な密約とされた。
一方、山内容堂の腹心・後藤象二郎は、脱藩中の坂本龍馬から『大政奉還論』を聞いて共感し、藩首脳部に説いて賛同を得ていた。
ここで薩摩藩は『大政奉還論』に関心を抱き、薩摩藩首脳(小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通)と土佐藩首脳(後藤象二郎、福岡孝弟ら)、さらに坂本龍馬と中岡慎太郎が陪席して会合を開いた。
そして薩摩藩は『大政奉還論』を了解し、両藩は「薩土盟約」を締結して武力討幕を原則回避することとなった。
この盟約で、幕府に速やかに大政を朝廷に奉還させ、朝廷が執政を行い、国家の意思は議事堂で決定する新国家体制を提示し、慶喜の将軍職辞任も明記された。
武力討幕路線を歩んでいた西郷隆盛らが、突然この「薩土盟約」によって平和路線をとったのは、大政奉還建白を徳川慶喜が拒否することを見越し、討幕の大義名分を得るためだといわれている。
実際、西郷隆盛も大政奉還建白は必ず幕府に拒否されると明言し、後藤象二郎も武力討幕の大義名分を得るためと理解していた。
また長州藩の木戸孝允も坂本龍馬に一連の流れを『茶番劇』であると手紙を書くなど、関係した者たちはこの盟約が純粋なものではないと自覚していた。
吉本みたいなもんすわ
盟約締結後、土佐に戻った後藤象二郎は兵を率いて再上京するつもりであったが、山内容堂の出兵無用論とイカルス号事件の処理によって動きが遅れた。
山内容堂は、大政奉還の方針に関しては大いに賛成していたが、兵力を用いて圧力をかけることは同意しなかった。
結果、土佐藩兵の上京は見合わせることとなり、大政奉還の建白は後藤象二郎に任せられることとなった。
一方、長州藩は「薩土盟約」を結び平和的路線をとる薩摩藩に当初は困惑していたが、盟約が武力討幕への大義名分を得るためのものであると分かると薩長両藩は出兵準備を進めていった。
この頃になると、大政奉還が実現しそうな気配が高まりつつあり、薩摩藩は挙兵が不可能となってしまうことを恐れていた。
そして薩摩藩は挙兵の準備を急ぐため、京に帰ってきた後藤象二郎に事態の急変を伝え、締結わずか2か月半で「薩土盟約」は解消された。
その後、薩摩藩は小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通が「討幕の宣旨」を下されたいとの願書を朝廷に提出。
一方で土佐藩は、大政奉還をめざして薩摩藩への協力を求め続けた。
これに対し薩摩藩は「討幕の宣旨」が下される見込みから、土佐藩には幕府への建白書の提出を承諾したが、その間に帰国中の島津久光が出兵反対論に押されて出兵が延期されてしまった。
このために薩長両藩の動きは遅れ、徳川慶喜に時間を与えてしまう。
そして薩長両藩に対する「討幕の密勅」が手渡された同日、徳川慶喜は山内容堂の建白に従って、大政奉還の上表を朝廷に提出し、討幕派は大義名分を失うこととなった。