おんべ鯛とは?
伊勢神宮と篠島(愛知県)の関係と干鯛について
なぜ、伊勢の神宮が三重県の島ではなく、愛知県の島と関わり合いがあるのか?
この記事では古来より、伊勢の神宮と関わりが深い愛知県の離島・篠島と、そこで作られる「おんべ鯛」について紹介していきます。
篠島とは
篠島は知多半島と渥美半島の中間、伊勢湾と三河湾の間にある愛知県の離島です。現在の地名は愛知県知多郡南知多町篠島といいますが、古くは「志摩國答志郡篠嶋」と神宮の神戸・御厨・御薗・神田・名田を記した室町時代の『神鳳鈔』に書かれています。
つまり、篠島は現在の三重県(伊賀国、伊勢国、志摩国、紀伊国の一部)側に属していた島であったのです。
そして古来より漁業が発達してきた篠島では、特に鯛漁が盛んな場所でもありました。
倭姫命の御巡幸、神宮と篠島
篠島の伝承によると倭姫命が御巡幸の途中、尾張国の中島宮より海路で渥美宮に渡ろうとした際に三川国羽豆許篠嶋里に立ち寄られて神宮領とし、御贄所に定められたといいます。
この時より篠島では、倭姫命の荒御魂を現在の神明神社の地にて、お祀りするようになったとされています。
正式な伊勢の神宮の資料には上記のような記述はありませんが、『倭姫命世紀』にある「十年辛丑。遷二幸于美濃國伊久良河宮一。四年奉レ齋。次遷二于尾張國中嶋宮一・座天。倭姫命國保伎給。(下略)」から「十四年乙巳。遷二幸于伊勢國桑名野代宮一。四年奉齋。」の間が篠島に立ち寄られた時機だと考えることができます。
以上のことから、伊勢の神宮と篠島は深いつながりがあり、今日まで続くこととなったと考えられています。
篠島の神明神社
篠島の神明神社には「倭姫命が御巡幸の途中に篠島へ立ち寄られて以来、命の荒御魂をお祀りし、宝亀二年(771)外宮の土宮を勧請せられ、神宮辻三太夫が守護随従して本村に移る。」と伝わっています。
また、神明神社の社殿造営は、伊勢の神宮の式年遷宮の翌年に必ず修造することになっており、神宮より内宮東宝殿の古材が下賜されていました。
しかし、昭和29年に外宮西宝殿の古材が下賜され、昭和49年と平成6年には再び内宮東宝殿の古材が下賜されてました。
なぜ、古材が一時外宮に移ったのかは、はっきり分かっていません。
篠島の八王子社
八王子社は正応元年(1288)伊勢国度会郡の箕曲神社から勧請されたと伝えられています。
八王子社の社殿も、昔は神宮の遷宮の翌年に下賜された古材で造営されていましたが、近年は神明神社の古材でもって造営されています。
また、八王子社の境内の井戸は「古井の井戸」と呼ばれ、かつて鯛の内臓を取った後にこの井戸水で洗っていました。
以上のように神宮と篠島の神社は深いつながりがあり、今日まで続いていることがわかります。
篠島の干鯛
伊勢の神宮の祭典において奉奠される神饌の中で、海の幸では「鰒(アワビ)」に次いで大切にされたのが「鯛」です。
全国の神事においても、よく鯛が供えられていることから古来より特別なものとして扱われてきたことが分かります。
藤原京跡から出土した木簡によると「塩多比(鯛)」を篠島から貢進したことが確認されており、平安時代の天皇の食膳品目にも干鯛が見受けられますが、現在篠島で奉製された干鯛は塩気が濃く、決して人間の口に合うものとは言えません。
おんべ鯛とは
干鯛のことは、古くから御幣鯛(おんべだい)と呼ばれてきました。
「オンベ」とは元々、御贄(みにえ)・大贄(おおにえ)とも書かれ、オオミニへが訛ってオンベになったといわれています。
伊勢の国でも御贄川や瀧原宮の「おんべまつり」という行事がありますが、これは鮎占いを行う行事があり、オンベ=鯛ということではありません。
全国的にも御幣と書いてオンベと呼んでいる所が多くありますといいます。
おんべ鯛の奉製作業
干鯛は神宮の最も重要な祭事とされる三節祭(10月の神嘗祭、6月の月次祭、12月の月次祭)に奉奠するのに合わせて奉製されます。
干鯛の作業は篠島の周辺で獲れた形の整った鯛を準備して約10日前から始まります。
①白衣白袴に身を包んだ奉仕者が中手島の海岸線で鯛の内臓を取り除き、桶に海水を汲んで竹で作った刷毛で洗います。
②鯛を竹製の籠に入れて天秤棒で担ぎ上げ、中手島の頂上にある調製所で塩を腹につめ、桶の中へ重ね置き、最後に海水を入れて漬け込みます。
③約1週間後、晴天の日に鯛を海岸縁に持っていき海水で再び洗います。
④天日で2~3日干して、完全に乾燥すると出来上がり。
鯛の数と大きさ
伊勢の神宮に納められる干鯛の数は、以下のとおりです。
6月の月次祭・・・1尺5寸を28尾、1尺2寸を50尾、7寸を110尾
10月の神嘗祭・・・1尺2寸が50尾、7寸が110尾
12月の月次祭・・・1尺2寸が50尾、7寸が110尾
大きさの基準は目の下から尾鰭のつけ根までの寸法で、形状は腹開きで、鱗、骨ともについています。
しかし、1尺5寸の鯛だけは鱗をとって、骨を抜いたものになっています。
昔は6月の月次祭で、その年の三節祭に奉奠される108尾が納められましたが、慶応元年(1865)より各祭事に合わせて3回に分けることになりました。
干鯛奉製所
現在の干鯛の奉製作業は前述のとおりですが、昔は神明神社の境内において、清浄さに注意を払いながら行なわれていました。
古来の奉製方法は、青竹を立て注連を張った中で鯛の腹を開き、八王子社の境内にある井戸水でよく洗ってから沖に出て海水で更に浄め、そして鯛の腹に塩を詰めて最後に押石をのせ、神明神社境内の倉庫に数日保管の後、天日乾燥するというもの。
しかし、現在の衛生管理上などから様々な問題が持ち上がり、昭和11年9月に作業場として中手島に御贄干鯛調製所が設立されました。
これを期に干鯛の奉製は篠島村から中手島に移され、その後、昭和51年に中手島と篠島本島の間が埋立計られて陸続きになりました。
伊吹神事(伊向神事)
神宮の三節祭で干鯛は、内宮・外宮の由貴夕大御饌(午後10時)と由貴朝大御饌(午前2時)で奉奠されます。
しかし、明治5年の6月の月次祭までは、外宮では15日午後10時と16日午前2時に由貴大御饌が奉奠された後、17日の朝に「伊吹神事(イムケ)」と称して干鯛だけが内玉垣南御門前に供えられていました。
イムケという言葉は清浄な神饌をさす「忌饌(イミケ)」の意味があったとされている説、伊吹神事と由貴大御饌の祝詞が同じであることから、由貴神事の「ユウキ」が訛って「イムケ」になったともいわれています。
御用船
平成10年10月、神嘗祭に奉奠される干鯛が70年振りに「太一御用」の幟を立てた古式の御用船によって篠島から伊勢に運ばれました。
昔はこの「太一御用」の幟は漁の時に立てると他の漁船は漁を遠慮した、御用船には他船が敬意を払って航路を防げることがなかった、といわれています。
この平成10年から、三節祭の中で最も重要とされる神嘗祭の時だけ、御用船によって奉納されることとなりました。