大河ドラマ麒麟がくる
小豆坂の戦い
大河ドラマ「麒麟がくる」で斎藤利政(道三)の罠にかかって大敗した織田信秀は、一時美濃への侵略を中断して尾張の東に位置する三河への侵略に向かいました。当時、松平氏は内紛状態にあり、織田信秀は三河での影響力を強めることには成功するのですが、これに待ったをかけたのが「東海道一の弓取り」といわれた今川義元です。今川義元は松平氏を支援して三河を事実上の支配下に置こうと考えていたため、織田と今川は激しく対立し、ついに小豆坂にて激突することになります。
この記事では、織田信秀と今川義元、松平広忠連合軍が三河の覇権を巡って戦った「小豆坂の戦い」について簡単に紹介しています。
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小豆坂の戦い(あずきざかのたたかい)
背景
岡崎城を拠点に西三河を支配していた松平氏は松平清康の代に三河全域をほぼ手中にしましたが、天文4年(1535)に清康が家臣に殺される事件(森山崩れ)が発生し、松平氏は一族間が争うという混乱状態に陥りました。
結局、松平氏の混乱は、駿河の今川義元の援助を受けた清康の子・広忠が家督を相続して収まりましたが、この混乱で松平氏の三河に対する支配力は弱まることとなりました。
天文9年(1540)、尾張の織田信秀は松平氏の弱体化につけこみ、西三河の重要拠点・安祥城を奪いました。
これで織田信秀は松平氏の本城である岡崎城の一歩手前まで勢力を伸ばし、三河の完全攻略を目指していきます。
第1次・小豆坂の戦い
天文11年(1542)、松平広忠は織田氏の勢力を三河から駆逐すべく、今川義元の援軍を要請して大軍を率いて出陣しました。
一方、織田信秀もこれに対して安祥城から出陣し、両軍は小豆坂で激突しました。
この戦いは織田軍の「小豆坂七本槍」の奮戦により、織田軍の勝利に終わったとされています。
※この戦い自体は無かったという説もあり、真偽の程は分かっていません。
戦後
第1次・小豆坂の戦いののち、ますます織田氏の三河への影響力は高まり、天文13年(1544)には三河の有力国人・水野信元が今川氏から離れて織田氏に従いました。
水野信元の妹は松平広忠の妻・於大の方であり、竹千代(のちの徳川家康)をもうけていたことから、松平家と縁の深い水野氏の離反は敵味方に関係なく三河に衝撃を与えました。
この状況の中、松平広忠は織田氏に対抗するため、竹千代を人質として駿府に送り、今川氏との関係強化を図ろうとします。
しかし天文16年(1547)、護送中の竹千代は田原城主・戸田康光の裏切りにあって織田氏に引き渡されてしまいました。
その後、松平広忠は織田氏から人質の竹千代を理由に傘下に入るよう説得されましたが、決して従おうとはせず、徹底抗戦の構えを貫き通しました。
一方、織田氏は美濃の斎藤氏と和睦して後方の憂いを無くし、三河攻略に集中できる環境を作っていました。
そして織田信秀は、ついに武力による岡崎城攻略に踏み切ることになります。
第2次・小豆坂の戦い
天文17年(1548)、織田信秀は岡崎城を目指し、長男・信広を先鋒として安祥城から出陣しました。
これを受けて駿河の今川義元も松平氏救援のために太原雪斎を総大将として大軍を送り、小豆坂で織田信広と戦闘になりました。
この戦闘では、はじめに坂の頂上付近にいた松平軍が優勢でしたが、織田信広は一旦兵を本陣まで退いて体制を立て直し、本隊と合流して松平軍を打ち破りました。
勢いに乗った織田軍が猛然と突っ込むと、浮足立った今川・松平軍の陣は次々と破られて敗色濃厚となります。
しかし、この時に縦に伸びきっていた織田軍の横腹を、伏兵の今川軍の部隊が攻撃しました。
これで大混乱に陥った織田軍は一転して総崩れに追い込まれ、安祥城まで敗走することとなりました。
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戦後
合戦直後の天文17年(1548)、松平広忠が急死したため、松平氏は無主の状態になってしまいました。
そこで翌年(1549)、太原雪斎は人質交換によって織田氏に捕らえられている竹千代の奪還を画策し、今川・松平軍は安祥城を攻略して織田信広を捕まえます。
そして竹千代と織田信広は人質交換によってそれぞれの国に戻り、今川氏は竹千代を使って松平氏を完全に保護下に置いていきました。
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