大河ドラマ麒麟がくる
信長の兄・織田信広
大河ドラマ麒麟がくるでは、松平竹千代(のちの徳川家康)を人質にして三河への侵攻を進めていた織田信秀に駿河の今川義元が応戦し、信秀の長男「織田信広」が捕らえられてしまう事態が発生します。
信長にとっては兄にあたる「織田信広」は、こののち松平竹千代との人質交換で尾張に戻ることができますが、その時に信秀は無傷の「織田信広」を見て大いに失望することになります。
この記事では、織田信秀の三河攻略にストップをかけてしまった恵まれない織田家の長兄「織田信広」について簡単に紹介していきます。
出典:https://wiki.games.app-liv.jp/
織田信広(?~)
武勇に秀でた庶子
織田信広は織田信秀の長男であり、信長の兄にあたる人物です。
生年は分かっていませんが、信長とは10歳程度の年齢差があったといわれています。
信広は母が側室であったことから家督の相続権がなく、庶子という扱いでしたが、織田家中では軍事的にも重要な役割を任されています。
天文17年(1548)、信広は小豆坂の戦いで今川軍相手に先鋒を務めています。
このとき、信広は小豆坂を登りきった際に敵の先鋒・松平勢と鉢合わせしてしまい、一旦信秀の本陣付近まで退いてから本隊と合流して松平勢を退けました。
この信広の好判断によって織田軍は勢いに乗り、信秀らは攻勢に出ましたが、そこに今川軍の伏兵が本隊を突き、織田軍は総崩れとなってしまいます。
この敗北により、織田軍は安祥城へと敗走し、信秀は安祥城の守備を信広に任せて尾張へと戻っていきました。
天文18年(1549)、信広が城主を務めた安祥城は、今川義元の軍師・太原雪斎が率いる今川・松平連合軍の侵攻を受けました。
この戦いでは信広は大軍に追い詰められながらも、深入りした敵の先鋒・本多忠高を討ちました。
そして、これによって浮き足だった今川軍の隙を逃さず、信広は城から打って出て敵を撃退する活躍を見せました。
しかし再度、太原雪斎が攻め寄せると、信秀は平手政秀などの援軍を送りましたが、 信広は耐え切れずに落城。
信広は今川軍に生け捕りされ、人質にされてしまいました。
のちに、信広は織田家の人質となっていた松平竹千代(のちの徳川家康)との人質交換という形で織田家へ復帰しますが、三河支配の拠点であった安祥城の落城と、人質交換による織田家の三河での求心力は大きく低下してしまいました。
兄の反抗期
信秀死後の弘治2年(1556)、信広は美濃稲葉山城の斎藤義龍と組み、父の後を継いでいた信長に対して謀反を計画します。
この頃、信長は美濃から攻められると自ら清洲より出陣し、代わりに信広が清洲城に入っていました。
信広はこれを利用して清洲城を乗っ取り、狼煙を上げて信広と斎藤義龍で信長を挟み撃ちにする作戦でした。
しかし、この計画は事前に信長に漏れており、信広は入城を拒否され、さらに城下の町人までもが厳戒体制を布いていました。
このため信広は計画失敗を悟って兵を引き上げ、斎藤義龍も「狼煙があがらない=信広の清洲城乗っ取り失敗」を確信して美濃へと引き上げていきました。
その後、信広は表立って信長と敵対し、何度も戦を仕掛けましたが、そのたびに敗れました。
やがて降伏した信広は、信秀直系の年長者であるために信長に許され、以後は従順に仕えて織田家中のまとめ役的な存在となっていきました。
討ち死に
永禄11年(1568)に上洛を果たした信長は、翌年に信広を京に常駐させて室町幕府や朝廷との折衝役を任せました。
信広は信長の兄ということで敬まわれ、公家の山科言継、吉田兼見らも交友を持ったといいます。
また、信広の活躍は戦場でも見られ、比叡山焼き討ち、岩村城救援などにも参戦しました。
そのほか、天正元年(1573)には織田家と不和になった将軍・足利義昭に対し、信広が名代として交渉に臨み、和議を締結させています。
そして天正2年(1574)、信広は伊勢長島一向一揆の最終盤に参陣しました。
この戦いでは兵糧攻めに耐えかねた一揆勢が降伏を願い出ましたが、信長がこれを許さず、逃げる一揆勢に対して一斉攻撃を行いました。
すると一揆勢は捨て身の反撃を試みて織田本陣に猛然と突入し、その際に信広は大木兼能と一騎討ちとなって討ち死にしてしまいました。
大河ドラマ「麒麟がくる」あらすじ関連記事
下の記事では、大河ドラマ「麒麟がくる」のあらすじや登場する人物、キャスト、ゆかりの場所などを紹介しています。本編の予習、復習にお使い下さい。