大河ドラマ「麒麟がくる」
明智秀満
大河ドラマ「麒麟がくる」では、明智光安(西村まさ彦)の子として、また明智光秀(長谷川博己)の従兄弟として「明智左馬之助秀満」が登場してきます。この「明智左馬之助秀満」はたくさんの逸話を残していますが、どれも真偽不明なものばかりで光秀以上に謎だらけの人物といえます。この記事では、若い頃から光秀に付き従って明智家の重鎮となった「明智左馬之助秀満」について簡単に紹介していきます。
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明智秀満(?~1582)
出自の謎
明智秀満は、弥平次・光春・満春・左馬助・岩千代、光俊など様々な名前があり、前半生は謎に包まれています。
出自の説は大きく3つに分けられ、そのうちの「三宅氏説」は明智光秀の家臣であった三宅氏の出身であるという説で、秀満がはじめ「三宅弥平次」を名乗っていたためにこの説は生まれました。
また、明智光秀の叔父・明智光廉も三宅氏を名乗っていたとされているため、明智氏と三宅氏は非常に血の繋がりの強い関係であったと考えられています。
一方「明智氏説」では、秀満は明智光秀の叔父・明智光安の子とされ、従兄弟である光秀に協力し、ある時期において三宅氏を名乗っていたとされています。
さらに「遠山氏説」では、秀満の父とされる明智光安を遠山景行と同一人物とし、その子である遠山景玄が母方の三宅氏の跡を継いだあと、のちに明智秀満を名乗ったとしています。
本能寺の変
秀満の前半生が詳細に語られている「明智氏説」によると、明智氏本家である光秀の後見となった父・明智光安は、弘治2年(1556)に斎藤道三と斎藤義龍が争った際に道三側についたため、義龍側から攻められて自害しました。この時、まだ若かった秀満は光秀に託されて共に城を脱出し、浪人となりました。
浪人になって以後、秀満は光秀に付き従っていたと思われますが、詳細は一切不明。
その後、荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいた光秀の娘が村重謀反の際に離縁されたため、秀満はその娘を妻に迎えて明智姓を名乗りました。
そして天正9年(1581)、丹波福知山を預けられた秀満は、翌年の本能寺の変の際に先鋒となって本能寺を襲撃することになります。
光秀が亀山を出発する前に謀反の決意を告げた時、一同が黙る中で秀満が承諾したために皆も承諾したといいます。
また、光秀は一番はじめに秀満に相談して謀反を止められ、次に斎藤利三ら四人の重臣に相談して反対され、その後に事の次第を知った秀満から「すでに四人にも語った上はやるしかない」と言われ、謀反を起こしたともいわれています。
本能寺の変後、安土城の守備に就いていた秀満は、山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に敗れたことを知ると、安土城を捨てて坂本城に入りました。
この安土城退去の際、秀満軍が放火したために安土城が焼失したとされてきましたが、フロイスの書状によると安土城は織田信雄が焼いたと書かれています。
また、秀満は坂本城に入る前に大津で秀吉方の堀秀政と遭遇しましたが、琵琶湖の湖上を馬で越えて戦闘を回避したという「明智左馬助の湖水渡り」の伝説を残しています。
坂本城
秀満の籠った坂本城は堀秀政によって包囲されましたが、秀満はしばらく防戦したのち、城にあった名品が戦火で失われることを危惧して、目録を添えて堀秀政の一族・堀直政へ贈りました。
このとき、堀直政から光秀秘蔵の脇指がないことを問われた秀満は「死出の山で光秀に渡すために自分の腰に差している」と答えたといいます。
その後、秀満は光秀の妻子と自分の妻を刺殺して自害しますが、落城までの間にも逸話を残しています。
秀満は坂本城を囲まれた際、敵軍の中に以前から見知っていた入江長兵衛という武士を見つけました。
すると秀満は一番乗りをして手柄を上げようと向かってくる長兵衛に声をかけます。
「入江殿とお見受けする。この城も私の命も今日限り。最後の一言を聞いてもらいたい!」
秀満の言葉に気づいた長兵衛が内容を尋ねると秀満は言いました。
「今、貴殿を鉄砲で撃つのは簡単だが、勇士の志に免じてそれはやめよう。私は戦場に臨むたびに攻めれば一番乗り、退却の時は殿を常として武名をあげてきた。自分の身を犠牲にして、子孫の繁栄を願ってきた。しかし、その結果が今日の私である。入江殿も私を見て欲しい。貴殿もまた私のようになるであろう。武士を辞めて安穏とした一生を送られよ。」
そして秀満は話を聞いてくれた礼として黄金300両の入った袋を投げ与えました。
秀満死後、この長兵衛は黄金を元手に商売人となり、財を成したといわれています。
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