大河ドラマ西郷どん(せごどん)
板垣退助(乾退助)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)、薩摩藩と長州藩は武力討幕によって幕府、徳川家を完全に倒そうとしていたのに対し、土佐藩は前藩主で実権を握っていた山内容堂に徳川恩顧の思いがあったため、徳川家の存続を藩の方針としていました。
しかし、そんな土佐藩の中で強固な武力討幕を主張していた人物が「板垣退助(乾退助)」と脱藩していた中岡慎太郎。
この二人は土佐藩を武力討幕路線に転換させるため、薩摩藩に近づき、ほぼ勝手に「薩土密約」を交わします。
今回は戊辰戦争では戦の天才として活躍し、のちに自由民権運動の先駆けとなった「板垣退助(乾退助)」について簡単に紹介します。
※大河ドラマ「西郷どん」では渋川清彦が演じます。
板垣退助(乾退助)
板垣退助(はじめは乾退助)は、天保8年(1837)に土佐藩の馬廻役・乾正成の嫡男として生まれた。
吉田東洋の私塾で学んだ後、万延元年(1860)に出仕した乾退助は藩の要職に就いたが、土佐勤王党の弾圧で武市半平太の行動に理解を示したために職を解かれてしまった。
その後、江戸での修業を命じられた乾退助は、騎兵術や蘭式兵学を学んで上洛し、慶応3年(1867)に武力討幕派を唱えて、脱藩していた中岡慎太郎の仲介で薩摩藩の西郷吉之助(隆盛)・小松帯刀らと会談。
『戦となれば必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する』と約束して「薩土密約」を結んだ。
この密約は藩の正式な意思決定を経たものではなかったため、私的なものとして処理されたが、それでも乾退助は土佐で武力討幕の筆頭として軍制改革を推し進めていった。
しかし、過激な行動を嫌った上士からは疎んぜられ、ついに乾退助は謹慎処分を受けることとなってしまう。
その後、鳥羽・伏見の戦いが起こると、京にいた土佐藩兵は山内容堂の制止を無視し、乾退助が結んだ「薩土密約」に基づいて独断で戦闘に参加した。
さらに、慶応4年(1868)1月7日、徳川慶喜が「朝敵」とされると、乾退助は謹慎を解かれイギリス式洋式銃で武装した土佐郷士の精鋭部隊・迅衝隊の大司令となって土佐を出陣。
京都に到着した乾退助は戦闘に参加していた土佐藩士と合流し、隊を再編成して新政府東征軍の先鋒総督府の参謀となって各地を転戦した。
名を先祖の「板垣」に戻した退助は、卓越した軍事的才能で戊辰戦争を戦い、元新選組局長・近藤勇が率いる甲陽鎮撫隊を勝沼で撃破したほか、奥州街道では母成垰の戦いを皮切りに会津軍を次々と打ち破り、会津若松城を開城させる勲功を成した。
こののち板垣退助は、明治政府の参議となるが明治6年(1873)の征韓論で敗れ、西郷隆盛らと共に下野し、翌7年(1874)に民選議院設立建白書を政府に提出するなど自由民権運動の先駆けとなった。
その後、全国を遊説して廻っていた明治15年(1882)、岐阜で暴漢に襲われ負傷。
板垣退助は出血しながら「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言ったことが、やがて「板垣死すとも自由は死せず」という表現で広く伝わっていった。
明治31年(1898)、対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である大隈内閣に内務大臣として入閣。
明治33年(1900)に政界を引退すると機関誌『友愛』を創刊したり、華族の世襲禁止を問う活動を行い、大正8年(1919)に死去した。享年83。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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