大河ドラマ西郷どん(せごどん)
錦の御旗(錦旗)
大河ドラマ西郷どん(せごどん)で起こる鳥羽・伏見の戦い。
この鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩の大久保一蔵が一つの切り札を用意していました。
それが一蔵の妾となっていた『おゆう』が縫った「錦の御旗(錦旗)」。
西郷吉之助らが率いる新政府軍の兵力は、旧幕府軍の半数以下だったものの、訓練された洋式軍隊だったことに加え、この「錦の御旗(錦旗)」が掲げられたことにより、新政府軍が官軍、旧幕府軍が賊軍とされて新政府軍の大勝に終わります。
この記事では、鳥羽・伏見の戦いの戦況を左右した「錦の御旗」について簡単に紹介しています。
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錦の御旗(にしきのみはた)
「錦の御旗」は、天皇、朝廷の軍であることを示す旗のこと。戦場において官軍であることを示した重要な旗であり、「錦旗(きんき)」とも呼ばれ、朝敵討伐の証として天皇から任命された大将に与えていた。
デザインは赤地の錦2枚に、それぞれ金の太陽・銀の月を描いて一対としたもので、鎌倉時代(1221年)の承久の乱のとき、後鳥羽上皇が与えた「錦の御旗」が日本史上初とされている。
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官軍の大将を示す旗に関しては、このデザインに定まっていたわけではなく、源頼朝の奥州合戦や室町幕府初期は「伊勢大神宮」「八幡大菩薩」の神号と鳩の意匠が入ったものが使用された。
のちに室町幕府では日輪と「天照皇太神」の文字の入った「錦の御旗」と足利氏の家紋と「八幡大菩薩」と入った武家御旗の2種類を用いているが、これらのことは武家が武の神様として崇拝した「八幡さま」がいかに重要視されていたのかがよくわかる。
「錦の御旗」を使用する場合、天皇の治罰綸旨を必要としていたが、旗自体は綸旨を受けた側が用意しなければならなかった。
このため、上記に記したように「錦の御旗」のデザインや大きさが時代によって異なり、旗竿の長さなどもまちまちとなった。
この「錦の御旗」を掲げる事が出来る大将は、足利氏を名乗れる将軍の一族に限定されていた。
しかし、江戸時代末期の慶応4年(1868)、鳥羽・伏見の戦いで新政府軍と旧幕府軍が戦った際、新政府側の薩摩藩の本営であった東寺に「錦の御旗」が掲げられた。
この「錦の御旗」は、戦闘開始以前に岩倉具視が薩摩藩士・大久保利通と長州藩士・品川弥二郎に製造を任せたもので、岩倉具視の腹心・玉松操がデザインし、大久保利通が京都市中で錦を調達し、半分を京都薩摩藩邸で製造。
もう半分は品川弥二郎が長州で仕立てあげたものだった。
この「錦の御旗」が掲げられると新政府軍は士気が上昇し、逆に旧幕府軍は混乱に陥って新政府軍に寝返る藩が続出するなど戦況に大きな影響を与えた。
当時、土佐藩士として参加していた田中光顕は「錦の御旗」を見るや否や、前線の旧幕府兵が「このままでは朝敵になってしまう」と退却していく姿を目撃したという。
西郷どん(せごどん)あらすじ
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