映画「ラストサムライ」妄想
その後の飛源と孫次郎
西郷隆盛がモデルになっているとされる映画「ラストサムライ」。その中に登場した飛源と孫次郎の兄弟のその後について、史実でありがちな感じで妄想し、勝手に書いてみました。
もう少し、ドラマチックにしたかったのですが、私的にはここらへんが限界ww。暇つぶしに適当に読んでください。
晩年の飛源 ※妄想
飛源
勝元盛次が起こした「勝元盛次の乱」後、共に戦ったネイサン・オールグレンは勝元の村に戻った。
オールルグレンは勝元の妹・たかの家で、たかの子・飛源と孫次郎の父親代わりとなって村にある広大な水田で農民として暮らした。
飛源と孫次郎兄弟も父の仇であったはずのすがオールグレンを父親のように慕い、農作の傍らでオールグレンから剣術の指導を受けた。
オールグレンは、勝元の嫡男・信忠も飛源の剣を高く評価していたことを思い出し、兄弟に剣術を教えていくこととなった。
1879年、15歳になった飛源は元服し、母とオールグレンの勧めもあって父の名である「広太郎」を名乗る。
勝元の嫡男・信忠からも剣の資質を高く評価してされていた飛源は、すでにオールグレンを超える腕前となっていた。
すでに刀の時代は終わっていたが、広太郎は1000年前から続く勝元家代々の寺に籠って修行を続け、1882年にはついに奥義を得て独自の流派を立てる。
広太郎は剣の達人であり、勝元と共に戦死した氏尾を敬い、流派を「氏尾流」と名付け、村で指導にあたるが、反逆の士とされた勝元たちのこともあって「氏尾流」の道統は村外に出ることはなかった。
元服時の広太郎(飛源)
また、広太郎は剣術のほかにも、書や禅にも優れていた。
20歳の時には書道家としても大成し、金に困った勝元の村出身の者から頼まれれば断らずに書き、それを売って生活費の糧にするように渡していた。
書いた言葉は、いずれも禅語で特に「結果自然成(コツコツやればいずれ報われる)」を好んで書いたという。
禅も極めた広太郎(飛源)
出典:https://twstat.org/
孫次郎
一方、勝元の反乱時はまだ幼かった孫次郎は、ほとんど戦の内容を知らないまま育った。
政府からの追及を逃れるため、村でも勝元のことは自然とタブーにされていたためである。
孫次郎も兄と同様に剣、書、禅に励んでいたが、「勝元盛次の乱」のことは13歳まで聞かされることはなかった。
乱の内容を知った孫次郎は涙を流し、政府への反感の思いを口にしたという。
その後、兄の創始した「氏尾流」の後継者として剣術の修行に励んだが、孫次郎の剣は一向に上達しなかった。
これは「剣=勝元」の思いが強くなり、政府の行いへの怒りが剣に現れていたためと、のちに養父・オールグレンは語っている。
ちなみにオールグレンもかつて勝元の嫡男・信忠から「雑念が多すぎる」との指摘をされている。
孫次郎はオールグレンが話す英語には幼い頃から興味があり、10歳の頃には英語で会話できるほどになっていた。
そして1890年、17歳になった孫次郎は伸び悩む剣術を諦め、日本の近代文明化に対応することを名目にオールグレンのツテで単身アメリカ留学した。
孫次郎がアメリカで農業学を学んで3年が経った頃、日本では各国と結ばれた新条約の発効準備に苦心していた。
これに目をつけた孫次郎は帰国すると自分の出自を隠して仕官し、外務省に迎えられた。
1893年、孫次郎の帰国3カ月後、養父オールグレンは病に倒れ、たかの必死の看病の甲斐なく死去。
出自を隠していた孫次郎は葬儀に参列することはなく、兄・広太郎は「弟は薄情者」と周囲に漏らしていたという。
やがて政府は新条約発効のための法制の整備が完了すると、孫次郎も官僚としての功が認められ、政府からアメリカ駐日公使を任命された。
しかし、孫次郎は自分の出自を理由に公使就任を断り、代わりに「勝元盛次の乱」での戦死者の名誉回復を要求した。
孫次郎は勝元らの命を奪った政府を恨みつつも、自分にできることは何かを考え、たどり着いたの答えが「政府の中に入って声を上げる」ことだった。
やがて孫次郎の行動は世に知られることとなり、勝元盛次の名誉回復の動きは広太郎が援助した村出身の者を中心に高まっていった。
さらに次第に政治に対する不満の声も重なって「勝元盛次の乱」に参加していた政府側の元兵士たちから声が上がり、1898年についに赦免が決定。
こののち、孫次郎は職を辞して村に戻り、アメリカで学んだ経験を活かして、母、兄と共に近代農業を村人たちに広めていった。
1900年、東京の勝元邸のあった場所(戦後は公園となっていた)に、勝元盛次の銅像が建てられ、3人揃って除幕式に参列。
翌年に母・たかが死去。その17年後の1918年に兄・広太郎が畑仕事に出かけた際に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
政府から外務省復帰の要請があったが、孫次郎はこれらを断り続けて農民として暮らし、1926年に脳溢血で死去した。享年53。