大河ドラマ「青天を衝け」
天野八郎
NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主役・渋沢栄一には幕府に恩義を尽くそうとする従兄弟(渋沢成一郎、尾高惇忠)や養子(渋沢平九郎)がいます。
彼らは栄一がフランスに行っている間に明治維新を迎え、旧幕臣としての忠義心から新政府に対抗する『彰義隊』の主要メンバーとなっていくのですが、この彰義隊の中で、渋沢成一郎らと激しく対立するのが「天野八郎」という男です。
渋沢一族と同様に農民から幕臣に取り立てられた「天野八郎」。
幕府に対する忠義心は渋沢一族よりもはるかに厚く、これが原因で彰義隊が真っ二つに分かれる事態に発展していきます。
この記事では『真っすぐこそ自分の進む道』が信条だった忠臣「天野八郎」の生涯について簡単に紹介したいと思います。
出典:http://mikemiketenko.blog.fc2.com/
天野八郎
幕臣へ
天野八郎は天保2年(1831)に上野国の名主・大井田吉五郎の次男として生まれました。幼名は林太郎。
成長した林太郎は江戸町火消し与力・広浜喜之進の婿養子となって江戸に上り、男谷道場で直心影流の剣術を学んで小柄ながらも名を轟かせました。
慶応元年(1865)、妻と離縁した林太郎は旗本だった叔父の「天野」姓を称して「天野八郎」を名乗ります。
そして将軍・徳川家茂の上洛時、正式な幕臣として取り立てられた天野八郎は感激し、以後は幕府に忠節を尽くすようになりました。
彰義隊に参加
慶応3年(1868)、鳥羽・伏見の戦いより戊辰戦争の幕が明けると、江戸城では幕臣たちの間で恭順派と抗戦派が対立するようになります。
すると天野八郎は幕府再興を目指すグループに属し、渋沢成一郎たちが中心となって結成した「彰義隊」のへの参加を決意しました。
天野八郎は彰義隊の会合に向かう際、二人の侍に突然斬りつけられることがありました。
しかし、これをさらりと受け流した天野八郎は「私は徳川家に恩義を感じている者。天野八郎と申す。そなたたちは何者か」と名乗ると、相手は驚き刀を納めたといいます。
この二人の侍は、新選組の永倉新八と原田左之助だったともいわれています。
出典:https://seesaawiki.jp/the_end_of_edo_2525/
彰義隊のトップに
その後、彰義隊は寛永寺に拠点を置き、頭取には渋沢栄一郎、副頭取には天野八郎が就任します。
豪放磊落な性格の天野八郎の性格に多くの武士が魅せられた結果でした。
彰義隊は謹慎中の将軍・慶喜の警護を目的とし、江戸の市民からも慕われていましたが、江戸城無血開城後に慶喜が水戸に移ると隊内で激しい対立が起こります。
頭取の渋沢成一郎らが上野からの撤退を主張したのに対し、天野八郎は真っ向から反対して徹底抗戦を主張。
この対立は襲撃事件が起こるところまで加速したため、最終的には責任をとる形で渋沢派が彰義隊から離れ、別組織「振武軍」を結成することで終結しました。
以後、彰義隊は天野八郎が頭取として実権を持ち、上野寛永寺を本拠に置いて新政府軍に対して徹底抗戦の構えを見せます。
新政府だけでなく、無血開城を成し遂げた勝海舟、山岡鉄舟たち旧幕臣たちも幾度となく彰義隊に解散を勧告しましたが、天野八郎はこれを断固として拒否しました。
上野戦争と天野八郎の最期
その後、彰義隊への攻撃には消極的だった西郷隆盛に代わって長州藩の大村益次郎が責任者になると、寛永寺は完全包囲され新政府軍から雨中総攻撃を受け、わずか1日で殲滅されてしまいます。
江戸城で指揮を執っていた大村益次郎は、時計を見ながら勝利する時間を予測し、残党の敗走経路も予測通りであったといいます。
天野八郎は戦況の要であった黒門口を守るため、旗本など40余名をつれて山王台へと駆け上がりましたが、「いざ一戦」と後ろを振り返ると全員が逃亡していて誰もいなかったと語っています。
上野戦争と呼ばれたこの戦いで新政府軍に敗れた天野八郎は、市中に潜んで再起を図りましたが、密告によりあえなく捕まってしまいます。
潜伏中、榎本武揚から打診された蝦夷行きを断った天野八郎ですが、この時にはすでに体調を崩していました。
そして牢の中で「徳川家のために逃げずに再挙を狙った。囚われの身となったが恥じることはない」と書き残した天野八郎は、明治元年(1868)に獄中で病没。享年38。
天野八郎は「男なら決して横にそれず、ただ前進あるのみ」と言って将棋の駒の香車を好んでいたといいます。
【青天を衝け】全話・あらすじ
【青天を衝け】人物・キャスト